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合理的世界観と「畏れ」・・・・『文明的野蛮の時代』 著者:佐伯啓思

佐伯啓思:著『文明的野蛮の時代』
第1部”小見出:震災と天罰----科学と信仰のあいだで----から抜粋。
 科学や技術を超えた人智の及ばない領域はある。この人知の及ばない領域があることの自覚とそれに対する「畏れ」の思いを抱きつつ科学や技術を極めるということが必要。
神の創った秩序の中にあって、人間は自然に寄り添いながら生きるのではなく、巨大な自然を動かしている法則を取り出し、その法則を使って自然を作り替えてゆく、という言わばコペルニクス的転換が生じた。自然の制約に服するのではなく、自然を作り替えて、それを人間の幸福の手段とする点にこそ、人間の自由=自立の意味がある、ということだ。ここに近代科学と、その実際的、組織的応用である産業技術が登場し、自由の拡大と富の増大がひとつに溶け合った近代社会が生み出されてゆく。・・・・(中略)近代的な科学と技術は自然を支配し、合理的な世界像を前提にしている。一八世紀の啓蒙期には、・・・人間の理性にもとづく合理的世界観が登場してくる。(p.62)
(中略)
近代的世界観もまた最善な世界の実現というキリスト教的理想をしっかりと受け継いでいるのである。全能の神に代わって、その神の業を理性によって把握する人間が実際上、神の座に就くのである。神の創造行為を部分的に人間が引き継ぐ。人間中心主義は、人間が理性によって自然を管理し、よりよいものに作り替え、社会を改善して人間の富や幸福を増大する限りでは、神の意思に反するわけではない。それこそ神の祝福をえることになろう。
このような論理は人間の富を増進させるあらゆる科学技術を正当化するであろう。もちろん、新たな科学や技術は予期しえない問題を生み出すだろう。しかし、その間題もまたテクノロジズムによって解決を図られるべきことなのである。(p.62-63)
(中略)
世俗における不幸は、世俗における因果関係によって確定されるはずなのである。問題は、科学者の理論的誤りであったり、技術者の設計ミスであったり、システムの誤作動であったり、ともかくも何らかの因果によって確定される。そこに「神意」も「神慮」も入る余地はない。・・・・
かくて責任を負うべきなのは科学者や技術者ではない。しかもそれは道徳的責任ではない。ただ「想定」が甘かったという言わばテクニカルな誤算なのである。こうして、問題を解決へ導くものは、「新たな想定」のもとでの新たな技術だけである。(p.64)
(中略)
彼らは常に「想定外」=「危機」=「例外状況」を想定しているからである。それはまた、技術がすべてを解決するものではない、と同時に危機に対応するのもある種の技術でなければならない、。(p.64)
・・・・
いくらテクノロジーが進歩しても「想定外」は必ずありうる。いや新技術が「想定外」を生み出す。自然の脅威をすべて管理することはありえない。とすれば、科学や技術を超えた人智の及ばない領域がある。時にはわれわれの生はこの領域に心ならずも接触するのである。その時出てくるのは、自然観であり死生観である。もっと言えば、「運命」としか言いようのないものに対する「畏れ」である。これは広い意味で「信仰」の問題であろう。(p.66)
(中略)
われわれが「科学」と「信仰」、言いかえれば、「自由や幸福追求」と「自然観・死生観・宿命観」のバランスを回復する契機にはなりうるはずなのである。(p.67)
佐伯啓思.『文明的野蛮の時代』 ,NTT出版, 2013年. p.62-60)。

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