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思想としての徴兵制・・・・・・『文明的野蛮の時代』 著者:佐伯啓思

佐伯啓思:著『文明的野蛮の時代』
第1部”小見出:思想としての徴兵制 (p.103-108)-------から抜粋。
 徴兵議論をする気のない国民=守るべきものを持たない国民ということである。守るものがあるならば理不尽な干渉にも抵抗をする、そのためには武装もする。この武装民兵で行うか国民の義務として徴兵制で行うか、議論が必要である。 
以下抜粋
・・・平和憲法が存在したために徴兵制の論議が不要だったのではない。論理としていえば、平和憲法があればこそ「自発的徴兵」としての「民兵」による国土防衛という思想がありえた。徴兵とは民兵武装した市民)による国家防衛の制度化にほかならないからだ。したがって、平和憲法があるために徴兵論議が不要だったのではなく、そもそも論議をする気がなかった、ということになる。(p.104)
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・・・政治思想のもっとも基本的な点を確認しておきたい。それは、近代国家とは、フィクションとしてではあるが、その正当性を人々の契約によって調達している、ということだ。契約の基本内容は、国家は人々の生命・財産を守る。同時に、人々は、その基本的な点において国家に従う、というものである。
 ところがここで重要な問題が生まれる。国家は人々の生命・財産を守るというが、どのようにして守るのか。国家の主権者が王であれば、王が自らの軍隊を率いてそれを守る。しかし近代国家とは国民主権である。とすれば、国民の生命・財産を守るのは国民自身ということになる。だからこそ、社会契約においてルソーは、何よりも国防のために国家に命をささげることを市民の義務として強く要求したのであった。
 これは近代国家の基本構造である。そこには確かに矛盾がある。人々の生命・財産を守るために人々は命を捨てることを要求されるからだ。(p.105)
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・・・戦後日本人に「平和」を守る、という本当の意味での覚悟も突き詰めた思想もなかったのである。(p.107)
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 もっといえば、本当に「守るべきもの」があったのであろうか。・・・・・。戦後日本人にとって「平和」とはただ「戦争のない状態」という消極的なものに過ぎなかった。「平和を守る」という言い方には「平和」と「守る」というふたつの要素が含まれている。そして、より大事なのは「守る」という方なのだ。
 もしも、「平和」とは断固として「守る」べきものだとすれば、「平和」を積極的に「守る」ためにも市民は武装しなければならない。「平和」を実現するためには、「平和国家」へのいかなる他国の侵略も義を伴わない理不尽な干渉にも抵抗しなければならないからだ。これは、近代国家が市民の生命・財産を保護するために、市民の武装を求めるのと同じ理屈である。
 確かにここに一種の矛盾がある。その矛盾をかろうじて支える思想があるとすれば、国軍が保持できない限り、憲法で規定された平和を守るためには、市民武装による民兵しかない。いずれにせよ、この矛盾を引き受けなければ「平和国家」などというものはありえないのである。(p.108)

佐伯啓思.『文明的野蛮の時代』 ,NTT出版, 2013年. p.103-108)。

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