第1部”小見出:「保守主義は保護主義か」----から抜粋。
保守するとは、博物館や文化館に展示することではない。保守するべきものを生活の中で主体的に創造をしていく行為である。。
保護主義を「正しい」と言うことはできるのであろうか。つまり「利」ではなく「価値」について論じることはできるのだろうか。
もしもこのように問題を立てれば、われわれは「保護主義は何を保護しようとしているのか」と問わねばならなくなるであろう。それは「国益」なのか、「成長率」なのか、「雇用」なのか。
そうではないであろう。
問題の立て方がまずいのである。「保護主義」が何かを保護するのは、そのものを「保守」するためである。では何を「保守」すべきなのか。
かつて三島由紀夫は『文化防衛論』のなかで次のように論じた。文化を防衛するとは、文化財を保護することではない。文化とは、常に作り出し形成されてゆくものであり、そこには文化形成の主体がある。文化を形成する主体があって初めてこの主体が「武」をとって文化を守ろうとするのだ、と。
もちろん、この議論をそのまま保護主義にあてはめることには無理がある。だが三島にならって言えば、日本という国を作り出してゆこうという主体があれば、この主体は日本を保守しょうとするであろう。この日本とは、歴史的に形成された社会生活であり、文化である。社会生活も文化も三島が言うように、決して生活博物館や文化館に展示されるものではない。作り上げてゆくものである。その創造的な主体があれば、彼は「武」を取るだろう。保護主義が、日本の何か大事なものの保守を意味するのなら、どうしてこれを経済の議論に限定できるのであろうか。保護主義者を唱えるならば、どうして自主防衛を唱えないのであろうか。これは「保守」する主体の基本的な立場のはずである。
かくて、農業問題は憲法改正問題と無関係ではないのである。それどころか、本質的には(あるいは思想的には)同一の問題である。保田輿重郎という名をここで引き合いに出せばますます現実から乖離するのだが、保田は、農業こそは「神ながら」の日本の国の骨格だと力説した。農業において、日本人は神とともにあり、儀礼をおこない、自然にしたがい、自足して利を求めることはなかった。したがって、農業を「利」によって酌量しょうとしたとたんに、それは近代的な堕落の道をたどるほかないのである。
この保田の論をそのまま再説しようというわけではない。しかし保田の極端な反近代主義は、われわれが忘れてしまった盲点を突いている。それは、「国益」と言ったとたんに、日本の「農」はもはや「保守」され得ない、ということである。「保護」はされても「保守」はされないのである。「農」を「保守」できるのは、保護主義やら農家補償ではなく、それを「文化」として創造してゆく主体だけである。
(佐伯啓思.『文明的野蛮の時代』 ,NTT出版, 2013年. p.58-60)。
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